教育ってなんだろうって話(教育と仕事の関連性を結構真面目に考えた)
最近、日本の教育がどんどん間違った方向へいっているのではないかという危機感を感じている。
日本について語る前に、英語圏の教育に対する考え方について話そう。
英語で" 世話をする "というのは" look after " だ。
これは、英語圏の教育に対する概念をまさに反映した表現だと思う。
英語圏の人たちにとって世話をするというのはafetr「後ろから」look「見守る」
ことなのだ。
子供に何かを教える時、それを強要したり、自分がやった方が早いからという理由で大人が全てやってしまったとしたら、それは教育とは言わない。大人のエゴだ。
今の日本の教育はどちらかというと大人のエゴに傾いていると感じざるをえない。
幼稚園や小学校から" お受験 "させている親がいるが、正直子供を見ているとかわいそうに思えてくる。本当に自分の意志で受験したいと思っているのならいいが、「お受験したい!」なんていう3歳児がいるだろうか。もちろん、子供の将来を考えてやっている部分もあるとは思うが、たいていの場合は自分の子供がいい学校に入ることによって、親の方が優越感に浸りたいだけだろう。
自分なら、無理やり受験させるのではなく、子供の近くで本を読んでみたり、一緒に外で遊ぶことで体験させてみたり、勉強している姿をみせたりして、子供が興味を持ってくれたものを伸ばしてあげようと思う。例えば本に興味を示したら、ただいろいろなジャンル本を本棚に置いておけばいい。キャッチボールに興味を示したら野球観戦に連れていってあげればいい。このように、子供の興味を引き出してあげるのが親の役目だと自分は思っている。
自分は、勉強をしろだとか宿題をやれだかと親に言われたことは、記憶している限り一度もない。もしあの時勉強しろと言われていたら、確実に勉強が嫌いになっていたと思う(頑固な性格なので(笑))。その点、両親にはとても感謝している。
塾講師のアルバイトをしていても、常軌を逸した親がざらにいる。
塾長との面談の際、子供が隣にいるのにも関わらず「この子家じゃ全然宿題やらないんですけどどうすればいいですか」とか、「お恥ずかしいんですが、この子全然勉強できないんです」とかを平気で言う親がいる。
こういう親を見ると、子供が気の毒でならない。
恥ずかしいのはあなたの方だと。宿題をやらないのもこの子が勉強をしないのもあなた達親がそういう教育をしたんだろうと。
子供は何も悪くない。寧ろ被害者だ。
もっとひどいケースもある。今自分が教えている生徒で夢がCAだという子がいるのだが、その子は部活の顧問に「お前は勉強ができないから無理だ」と言われたのだそう。
(これに対して自分は、親や先生に何と言われようが自分が本当にやりたいなら最後までやり抜けと言った。すると、その子も笑顔を見せてくれた。)
指導者がこれでは日本の将来も終わったなという感じである。
このような大人の自己中心的な発言を、子供は繊細に感じ取っているということを大人はもっと強烈に意識しなければならない。大人の些細な言葉が、その子の中に秘められている将来綺麗な花を咲かすかもしれない蕾を無意識のうちにむしり取っているということに気づかなければならない。
そこで、なぜ今の日本がこのような状況に陥っていってしまったのかということを論理的に掘り下げていきたい。
そもそもエゴに縛られた親が子供をお受験させようと思うのは "偏差値の高い大学に入る" ="優良企業への就職が保証される"="エリート"という構図が大衆の頭の中にあるからだ。
だとしたら、この構図を変えなければ教育に対する考え方も変えることはできない。
"偏差値が高い大学に入る" = "安定した将来" という時代はとっくの昔に終わったし、そもそも偏差値の高い大学に入って給料の高い企業に就職することが本当の幸せとは限らない。その道は、無限にある道の中のある1つの道に過ぎないのだから。それなのに、「この道が正しい」と思い込んでいるとしたら、自分で自分の可能性を切り捨ててしまっていることになる。少し立場を変えて、もし親や先生が子供にその道がだけがあたかも正しいかのように教育していたとしたら、その教育は子供にとって"洗脳"となるのである。
教育は洗脳ではなく、その子の可能性を広げる手助けをしてあげることというのが自分の価値観である。
人生は1回しかない。たった1回しかない人生を、自分のやりたくないこと、自分の苦手な人と関わることに使っている時間なんてない。こんなことを言うと、頭の固いサラリーマンに人生なめてると言われるかもしれないが、サラリーマンはサラリーマンの道しか知らないのだからとやかく言われる筋合いもない。自分のやりたいことを、同じ目標をもった仲間としていた方が楽しいに決まっているし、それが本当の幸せだろう。
誤解を招くといけないので付け加えておくが、サラリーマンを見下しているつもりは全くない。サラリーマンがいなければ社会は回らない。ただ、もしそのサラリーマンがその仕事を本心ではやりたくないと思っているのにもかかわらず、高い給料をもらうためにやっているのだとしたら、それは"賃金の奴隷"だといえる。そして、そのような生き方をしている人を自分は尊敬する対象として選ばない。
将来に不安を感じても結局変えられるのは今しかないのだから、難しいことは考えず今を全力で頑張るしかない。将来に縛られて今を生きるのがなによりの不幸だというのが自分の今の考えである。